Masuk「運転手は……」遼大がそう言いながらタブレットを操作する。「ミラトリウム製薬のトラック運転手で、特に変わったところは無さそうだな」遼大と一緒にタブレットを見ていた私も、書かれている調査を読みながら頷く。「そうね、特に変わったところは無さそうだわ」運転手が何かに関わっていたという事実は今のところ、見えて来ない。私が千堂弘なら?運転手に何かを話す事などしないだろう。千堂弘ほどのマッドサイエンティストなら尚更だ。遼大が溜息をつく。「運転手がベイサイドパイロットプラントの方角から来ているなら、あの辺一帯の捜索をしなければならないが……」そう言いながら遼大がタブレットに地図を表示させる。「ラボが隠されていそうなプラント自体の数が多すぎるな」地図に表示されているプラントの数はかなり多い。「一条さんが言っていたように、あれだけの設備を用意しなければならない事を考慮に入れても、数はまだまだね」私がそう言うと遼大が溜息をつく。「手詰まり、か」そう言う遼大と共に私は地図を見つめる。(何か、何か無いのかしら……)今、この瞬間も愛沢くるみは千堂弘の魔の手にかかっているかもしれない。でもそれも自業自得と言えばそうだとも言える。それでも。私は愛沢くるみを失う訳にはいかない。私の名誉の事なんかどうでも良い。私の評判が落ちた、あの医療過誤の事も、今ではもうどうでも良かった。ただ颯太にした事だけは許せなかった。そして私の子供を失わせた事も償わせなければ。そう思っていると、遼大のスマホが鳴る。遼大が通話のボタンをタップする。「……分かった、送ってくれ」遼大がそう言って通話を切り、私を見て微笑む。「何とかなりそうだ」そう言われて私は聞く。「何が、どうにかなりそうなの?」そう聞くと遼大が言う。「トラックの運搬経路を洗ったんだ。今までの分も含めてね」遼大はそう言いながら送られて来たファイルを開き、タブレットに表示させる。「これ……」私がそう呟くように言うと、遼大が頷く。「あれだけ大きいトラックだからな、Nシステムを抜けられる訳が無い」遼大にそう言われて私も頷く。「それはそうね」遼大はタブレットにそのファイルから取り出した経路と、地図を重ねる。「あのトラックが普段からミラトリウム製薬と取引があると仮定して」遼大はそう言いながら
調べはすぐに上がって来た。事故はミラトリウム製薬の薬剤を積んだトラックの前方不注意による横転事故で、一般車両が巻き込まれた形だった。その事故の際に、積んでいたタンクが破裂し、その薬剤を大量に浴びたのがあの運転手だという。「周囲にばら撒かれたであろう薬剤については、現場の処理班が危険性無しと判断出来る濃度だったようだ。だがその薬剤を直接浴びた運転手については重篤な症状が出てもおかしくないな」遼大がそう言う。「そうね……」そう言いながらも私は考える。一体、何の薬剤を浴びたら、あんなふうに赤紫色の血になり、溶血するんだろうか。「手術は上手くいったのかしら」私がそう呟くと、湊が微笑む。「確認して来よう」そう言って湊がオフィスを出て行く。私の脳裏にはEMSOの地下で見た、紫色の煙が浮かんでいた。絶望の王・レプリトールディザスター今もEMSOの地下階にはその薬品が充満している。分析を急がせてはいるけれど、今のところ、打つ手なしとなっている、まさしく悪魔の薬品だ。その絶望の王・レプリトールディザスターの紫色の煙と、ついさっき手術室で見た赤紫色の血がリンクする。千堂の血がそうさせているのだろうか。「事故に遭った運転手の運搬経路が分かったぞ」遼大にそう言われて私は遼大を見る。「そのトラックはどこから来ているの?」そう聞くと遼大が言う。「郊外だ、俺たちが以前、突入したベイサイドパイロットプラントのすぐ近くだな」そう言われて、やはりと言うべきか、あのベイサイドパイロットプラントが千堂家の根城のような気がした。「どうやらあの辺一帯は千堂家の所有地らしいな」遼大がそう言う。不意にスマホが鳴る。遼大がスマホを見て、画面をスクロールしている。「漏れ出した薬剤は、新しく開発した試薬のようだな」そう言って遼大が私に画面を見せてくれる。「見た事無い構造式ね」私がそう言うと遼大も頷く。「あぁ、俺も見た事が無い」私はその構造式を見ながら、ふと気づく。「でも、待って。ここに……」そう言って私が指した箇所を見た遼大が呟く。「レプリトールの変異型か……ヴェノムとはまた違った形だな……」そう言いながら考え込む遼大は研究者の顔をしている。湊がオフィスに戻って来た。「どうだった?」そう聞くと湊が言う。「あぁ、運転手は助かったよ。大量の輸血が
「お見事だったな」遼大が手を洗いながらそう言う。「久々に現場の洗礼を浴びたわね」私がそう言って笑うと、すぐ横に湊が来て、同じように手を洗いながら言う。「やっぱり燈は救急救命医なんだな」そう言って微笑む。確かに私は自分でも、救急救命医が向いていると思っている。混乱の最中にあっても、その混乱の中で的確に最適解を見つけて行く。でもそれはやはり優秀な医師が揃っていなければ、成り立たない事でもあると思っている。「遼大や湊が居たからよ」私がそう言うと、遼大が笑う。「仮に燈一人だったとしても、あの現場ならやれたさ」遼大にそう言われて私は笑う。手を洗い終えた時、看護師の一人がその場に飛び込んで来る。「燈先生! 久遠先生! 高嶺先生!」看護師は息を切らしながら言う。「あの、ちょっと来てください!」◇◇◇看護師に呼ばれて出向いた先は、術前準備室と呼ばれる、私たち医師が手術の準備をする際に使用する部屋だった。そこにはモニターが設置されていて、手術室内部がモニターによって見られるようになっている。看護師は私たちをそこへ通すと、部屋に併設されている手術室内部と通話できる受話器を取り、言う。「山崎先生、燈先生たちをお呼びしました」モニターに映る医師が何かを指示している。すぐに手術室内部の声がモニターのスピーカーを通し、聞こえて来る。「お呼び立てして申し訳ない」山崎医師がそう言いながらカメラを見る。「こちらを見て頂きたい」そう言って山崎医師が手術している手を患部から離した。それを見て息を飲む。「何なの……これ……」私は思わずそう呟く。モニターに映っているのは、肝損傷による腹腔内出血を起こしている部位なのだけれど。「血が……赤紫に変色してる……?」遼大がモニターを凝視しながらそう言う。「そうなんです、色がおかしいのもそうなんですが、匂いが……」そう言われて湊が聞く。「匂い?」私たちは顔を見合わせて頷き合う。◇◇◇術着に着替えて、手術室に入る。入った瞬間に、術室に充満する甘ったるい匂いに顔を顰める。「この匂いは何なの?」私はそう言いながら患者に近付く。サクションの透明なチューブを通って吸引瓶へと吸い上げられていく液体の色は、私たちが普段目にしている脈打つ鮮血の赤とは決定的に異なっていた。コールタールのように沈んだ赤紫の奥底
誰も居ないと思っていたけれど、急に私の視界に何かが入って来る。視界に入って来たのは一人の男。その男は私を見て微笑み、ごくごく小さな声で言う。「安心してください。僕があなたを守りますから」そう言ってその男は私の頬に触れる。何故だかは分からないけれど、その男に触れられた時、ゾッとした。その瞳の奥にある欲望が、見えた気がしたからだ。私も知っているその欲望――相手を自分だけのものにしたい、そして願わくば相手が自分だけを見るように仕向けたい……そんな誰にでもある欲望。その欲望の眼差しが私に向けられている。今までだってそんな欲望はいくつも向けられて来たけれど。この眼差しの奥にある光の強さは尋常では無いと、直感的にそう思う。「うぅーー……」呻き声しか出せない。彼は何故か小さな声で私の耳元で囁く。「愛沢くるみさん……僕の天使……僕だけの可愛いお人形……」(何を言っているの……この男……!)ゾワッとした悪寒が体中を走り抜けていく。この男に捕まったらいけないそう直感が告げているのに、私は今、体を動かせない。その男の手が私の頬を撫で、そして首筋へ降りて行く。(止めて……止めて……止めて!)見た事も触れた事も無い、それが何なのかも分からないものへの恐怖なのか、私の瞳には涙が溢れて落ちて行く。「泣かないで……大丈夫です、僕が助けます」その男はそう言って私に極限まで顔を近付けて微笑む。◇◇◇「ミラトリウム製薬はやっぱり千堂が経営権を握っているのか……」調べた結果を見ながら遼大がそう言う。「そのようね」遼大と共にPCの画面を見る。国内の製薬会社の中でも、頭一つ分、抜き出ている。製薬会社としては既に国内では無くてはならないような地位にまで上り詰めている、といった印象だった。そして波多野優斗から聞いたように、汎用性の高い薬品から、かなり特殊な薬品まで、幅広くその種類を揃えていて、国内ではおそらくは誰も太刀打ちは出来ないだろうと思えた。「これだけの大きな会社だもの、自社で抱えているラボなんかもかなりの数ね」私がそう言うと遼大も頷く。「そうだろうな……そうなると絞り込みがかなり厳しくなりそうだな……」遼大に言われて私も考え込んでしまった。これで愛沢くるみの連れて行かれた場所の捜索範囲がまた広がってしまった。不意に廊下の向こうでパタパタと駆
早速、私と遼大は波多野優斗から聞いたミラトリウムについて調べる事にした。湊にも情報を共有する。私と遼大の共有オフィスで調べ物をしていると、扉がノックされて入って来たのは賀神さんだった。「賀神」遼大がそう言って賀神さんを歓迎する。「昨夜あった事をついさっき、聞いたんだ」そう言いながらオフィスに入って来る。「情報は狭い範囲でしか共有されていない。緘口令を敷いているからな」遼大がそう言う。「それで、何か分かったか?」賀神さんが遼大にそう聞く。「愛沢くるみが連れ去られた昨夜に関しては、今まだ調べている最中なんだ。だが」遼大がそこで言葉を区切る。「黒幕は千堂だ」そう言うと賀神さんが頷く。「そうだろうな。それ以外に考えられない」私は賀神さんに聞く。「賀神さんはミラトリウム製薬って知ってる?」そう聞くと賀神さんが私を見る。「ミラトリウム製薬だったら知っています。国内ではかなりのシェアを誇っている製薬会社ですよね」そう言われて私も頷く。「そうなの」そう言うと賀神さんが怪訝そうな顔をした次の瞬間には、事の展開が読めたのか、聞く。「まさか、ミラトリウム製薬が千堂……?」そう言われて遼大が少し笑う。「さすが、思考が早いな」遼大にそう言われて賀神さんが笑う。「私は知っての通り、国内の事情には疎い。だが製薬会社が絡んでいるなら、静香に聞くのも一つの手だ」賀神さんにそう言われて遼大が頷く。「それを頼もうと思っていたところだよ」賀神さんは微笑んで頷く。「すぐに聞いてみる」そう言いながら賀神さんが胸元からスマホを出す。「それで、御堂院静香とは?」遼大が何かのついでだと言うように、そう聞く。賀神さんが少し吹き出す。「問題無い。御堂院家の当主であるお父様からも謝罪を受けた」つい先日の視察の事を思い出す。かなりプライドの高そうなご当主だった気がする。「あのご当主が謝罪をしたのか」遼大も同意見だったようで、賀神さんにそう言う。「あぁ。これは私の予測だが、おそらくは東都メディカルを私に渡すつもりなんだろう。でなければ謝罪などする筈無いからな」賀神さんがそう言う。御堂院静香と結婚という事になれば、自然とそう言う流れになるだろう事は予測が出来た。そして賀神さんならそれが当たり前に出来てしまうだろう事も分かっている。「実力でもぎ取
ここ数日起きた出来事を順を追って話していく。そして昨夜の愛沢くるみの失踪まで話が及ぶと、波多野優斗も新田豊も驚いていた。「院内でそんな事が起こっていたなんて……」新田豊がそう呟く。「まだ公にはしていない情報なんだ。愛沢くるみを連れ去った男たちの素性すら分からない」遼大がそう言う。私は少し気になって波多野優斗の反応を見ていた。波多野優斗にとって愛沢くるみは姉だ。虐げられ搾取されて来たとは言え、そこはやはり血族。だから何か私たちには無い特別な感情が沸き起こるかもしれないと懸念していた。けれど。波多野優斗を見る限り、そんな感情が湧き上がっている感じはしない。「大丈夫?」私がそう聞くと波多野優斗は苦笑する。「驚きはしましたけど、愛沢くるみは僕にとってはもう他人です」そう言いながらベッドに半身を起こしている新田豊を見て微笑む。「僕にとっては豊さんの方が肉親に近いです。確かに愛沢くるみは姉ですけど、僕は今までずっとその肉親である筈の姉に搾取されて来た。こちらが何もしていないのに助けてくれた豊さんとは人としての格が違い過ぎます」そう言って笑う波多野優斗は姉である愛沢くるみとは決別したのだろうと思えた。「じゃあ、くるみは今、だいぶ、危ないんですか?」新田豊がそう聞く。遼大と顔を見合わせる。「もしかしたらそうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。私たちには分からないわ」私はそう言いながらも、愛沢くるみは無事では済まないだろうと思っていた。「ただ相手が真正のマッドサイエンティストだって事は確かだな」遼大がそう言って少し笑う。「愛沢くるみの首に」そう言いながら遼大が首を指差す。「極太のカテーテルを入れて、引っこ抜いた狂人だからな」そう言われて新田豊も波多野優斗も顔を顰める。「すげぇ、グロいっすね……」そう新田豊が言う。「そんな状況下で姉は生きてたんですか?」波多野優斗がそう聞く。「えぇ、幸いな事に、と言うか、おそらくこれは千堂弘の計算の中に入っていたとは思うけれど、最低限の止血の処置はちゃんとしてあったの。そして目の前に倒れている人間を放り出して、自分を追って来る事は無いと、そう踏んでいた」私がそう言うと新田豊が苦笑する。「怖い思考っすね」私も遼大と顔を見合わせて苦笑する。千堂弘のその思惑はその通りだったから。私も